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とてもすごい研究者in北海道 [エートマン・モードの人物館]

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 1919年のお生まれということで、もうすぐ白寿。北海道において「砂白金」などの鉱物資源について
造詣が深い弥永芳子さんのご著書を並べる機会がありました。著されたご本は、これだけではないので
すが、とりあえず3冊を並べることがありました。

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 弥永さんには、そのほかに吉田初三郎の鳥瞰図についても造形が深く、こうしたご本も出されている
そうです。実物はまだお目にかかれず、Amazonの商品情報からですが、いつか手にしたいものです。

 弥永さんは、ご存命なので、「人物館」で取り上げさせていただくのは失礼かと思われますが、
そうはいってもここしかなく、ご著書の紹介に止まりましたが、ここにメモしておきます。

《追記》記事中の「吉田初三郎」の名を長らく「発三郎」と誤っていました。
    お詫びして訂正いたします。2018年1月3日

長野幹さんの書でありました [エートマン・モードの人物館]

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 前回のつづきとなりますが、南アルプス市川上に鎮座まします天神社の拝殿です。
正面三間の中間が広く、向拝がつきます。

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 向拝は、「ごはい」とも「こうはい」とも呼ばれ、参拝の折、神様をここで拝する場所です。
そこで見上げたのがこちらの写真。ここにも神号額が掲げられていました。
「天神社」とケヤキと目される板に彫り付けてあるのです。

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 今回のテーマは、こちら。
すなわち、神号である「天神社」の文字の書き手の情報がそこに添えられていたのです。
曰く「山梨県知事 正五位勲四等長野幹謹書」と。
 さてさて、長野幹さんって、どんなお方でしょうか。気になりますね。
ウィキペディアなどによると、1877年(明治10)福井県の生まれで、初め大木姓。
長野家の養子となり、東京帝国大学に学び、内務省に入省。内務官僚として活躍の後、
三重県、山梨県、秋田県、鹿児島県の官選知事を歴任。のち実業の道に入る・・・。
といった人物で、わが山梨では、官選第22代の知事として1919年(大正8)から21年(大正10)
まで勤められたのでした。ちなみに、お名前の読み方は「ながの・かん」なのだそうです。
 その任期中には、武田神社の創建や謝恩碑建設の工事が進められたりしたことが
知られます。

さきみつさんの娘(前編の本題の前に、とくにその父のこと) [エートマン・モードの人物館]

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 さきみつさんのこと考えてたら、どうしても甲府城が出てきてしまうのでした。
写真は、くろちゃんのアジトから見た甲府城跡(らしい)。
『くろちゃんの甲府城つづりII』というブログの今日の記事から借用です。
(断っておきますが、オリジナルはもっといい写真でして、当方では画像サイズを
極力小さくしておりますので、粗々というわけです)

 さきみつさんとは、フルネームを柳原前光さんといいまして、嘉永3年、
京都生まれのお公家様でありまして、明治27年に、御年45歳でご他界あそばされました。
奇しくも明日、すなわち9月2日が命日でございます。

 さきみつさん、いやこの後は前光さんとしましょう。
弱冠18歳で迎えた慶応4年、戊辰戦争が起こりまして、前光さんは東海道鎮撫副総督という、
官軍の大将の一人とおなりになったのであります。
 その年の3月、副総督・前光さんは、甲斐に入国。この甲府城で御維新の幕開けを
迎えようとしていたのです。
 具体的には、それまでの城代に取って代わって、甲府鎮撫使として、わが山梨
(まだ山梨ではなく甲斐だけど)を治めていたのであります。その11月、
甲府鎮撫府は甲斐府となり、翌明治2年に甲府県、さらに2年後の明治4年の11月20日に
山梨県となった経過があります。

 前光さんは、山梨県の誕生の前に、その歴史に大きく関わってこられたのですが、
あまり知られていません。(学校でもちっとも耳にしなかった)
 前光さんは、新政府では外務省などに活躍の場を得、西南戦争の終結に現地に赴くなど
また皇室典範の制定に関わったりと、たくさんのお仕事をなさいました。

 それから前光さんの妹・愛子(「なるこ」とお読みします)さまは、明治天皇の典侍となられ
大正天皇の生母となられた方です。
 前光さんの家は、伊予宇和島藩伊達家の血を引く正妻との間に設けられた長男・
義光さんに嗣がれていきますが、後に義光さんはたいへんな目にあうのであります。
 その原因は、前光さんの次女・燁子がもたらした一大事件によります。
(続きは、「前光さんの娘(前編の本編)」に・・・)

川崎順道さんって、どんなお方? [エートマン・モードの人物館]

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 前回の「蚕影山」の文字を残した川崎順道さん、気になってネット検索したのですが、
よくはわかりません。
 が、二つの系統の情報に接することができました。

1つは、明治になったばかりのころ、新撰組隊士録に名が見えるというもの。
甲陽鎮撫隊の局長付で、彼の近藤勇の護衛を担当していたらしい・・・という情報です。

もう1つは、明治22年に編まれた『山梨県人物誌』の初編に、「川崎順道君傳」というのが
確認され、それによると「八幡村に住す刀圭の術を以て鳴る」お方だったというものです。

矢崎曠さん(2) [エートマン・モードの人物館]

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 ふ~ん、そういうお方だったんだぁ・・・。

 と、おとぼけ気味にごまかしてはいけませんね。
実は、台座の背面にはこのような
文字が浮き出るように鋳造した銅板プレートが付けられていたのですが、
こうしたものを写真にするととても画像データが重くなります。
いつもこのブログに使用している一枚当たりのデータ容量に納めたところ
まったくよく理解できない写真になってしまいました。

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 そこで、あらためて初めの方だけ読めるようにしてみました。
画像サイズは、前者が20,959バイトに対しこちらは31,306バイト。大きいですね。

 そうそう、肝心な書かれている内容ですが、書き起こすと次のようになります。
なお、原文は縦書きですが、横書きにかえ、数字も算用数字にし、
旧漢字は現行のものにして、句読点もつけています。

     矢 崎 曠 翁 略 歴   明治40年4月1日、山梨県諏訪村に生る。幼にして行余   義塾に学び郷に在りて青雲の志を涵ふ。日露戦役に従軍   後樺太境界画定委員となり大任を果たす。大正2年、日本聯   合電灯支配人として実業界に入り、故櫻内幸雄翁の知遇   を得てその才腕を認められ、大正14年、琴川電力を起し、今   日の事業的基礎を樹立す。一方、東京商工会議所議員たる   こと前後14年。東都各方面の事業界に活躍。就中、精魂を傾   けて昭和10年、全国に魁け、桑皮を原料とする扶桑紙業を   創立し、成果大にあがる。昭和14年、琴川電力を母体とし日   下部町に製鉄事業を始め、社名を日本電化工業と改む。次   で、日下部バルブ社長を兼ね、第二次大戦後、居を此所に定   む。県下屈指の実業家として、よく後進の指導に当たり、また県   内産業の開発、科学振興の第一線に立ち、その資性を顕わす。   老来益々旺んにしてここに喜寿を迎ふ。 昭和29年春、誌す。

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 矢崎曠さんの胸像の背面を見てみました。
背中の左下に「昭和廿九年四月 / 周三郎作」と製作年月と作者名が刻されていました。
製作時期は、台座の略歴と同じ時期になっていました。

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 台座の左側面には、矢崎曠さんの寿像の建立に関しての世話人さん達のお名前がありました。
河西豊太郎さんを筆頭として年齢順に11名のお名前が連なり、
4人目に天野久さん、お終いに櫻内義雄さんのお名前もありました。
櫻内義雄(明治45=1912~平成15=2003)さん、ご存知ですよね。
矢崎曠さんの略歴の中に出てくる櫻内幸雄さんのご子息という関係、
矢崎曠さんを理解する上でキーマンとなる方のようです。

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 矢崎曠さん、今回初めて、その人となりに接することができたのです。  

 

矢崎曠さん [エートマン・モードの人物館]

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 山梨市の万力公園の一角に、ブロンズ製の胸像が見られました。
いったいどんなお方?
こうして胸像が公園の中におかれているからには、りっぱな功績を残されたお方なのでしょう。
台座に「矢崎曠翁壽像」という題が付けられていたので、このお方は「矢崎曠」さんなんだ、
寿像というからには、生前に建てられたんだ。ますます凄い・・・。

 ということですが、どんなお方なのか、続きは次回に。

天野久さんの能書の跡(3) [エートマン・モードの人物館]

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 前回の記事「割石隧道」の名称額に注目です。
この独特な書風、またトンネルの竣工時期の昭和34年というのからすると、
額の書の書き手はもうあのお方しか考えられませんね。

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 やはりそうでした。
公選2代目の山梨県知事(昭和26年~42年)でありました天野久さんでした。

iモード 関連記事
ひらめき 天野久さんの能書の跡(2)
ひらめき 天野久さんの能書の跡(1)
ひらめき 造形6(天野久さんのお姿)

ようじゅいんさま [エートマン・モードの人物館]

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 マ、マッ・・・、マリアさま?
ちがうちがう!

 じゃ、アフロディーテ??
ちがうちがう!!

 それなら、ジャンヌダルク???
ちがうちがう!!!

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天野久さんの能書の跡(2) [エートマン・モードの人物館]

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 また前回のトンネルを受けての内容ですが、今回のカテゴリは「人物館」
山梨にゆかりのある、ないしは山梨の歴史に輝く人物にスポットを当てたシリーズです。

 ところで、前回の扇崎隧道には、それぞれの坑口に、
それぞれ異なったネームプレートがありますが、今回はそのプレートの文字(書)の
書き手としての人物に注目するものです。
 それで、このプレートには、「天下第一景」と書されています。
富士山を望むところの歴史的プレートには、富士山に関連し
美しい世界だと強調したものが多く残っています。
今回のトンネルのプレートも、富士山がよく見える側に付いていたものです。

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 さて、その書は、誰の手になるものでしょうか。
これでもうおわかりですね。
公選になって2代目の山梨県知事(在任期間:1951~1967)の天野久さんでありました。

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 反対側の坑口の方のプレートには、トンネルの名称である「扇崎隧道」の文字が書されています。

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 こちらにも、「山梨縣知事 天野久」の署名があります。
しかし、どの墨跡を見ても思うことですが、天野久さんの書は、
特徴のある、力強い書だなぁ・・・。

ひらめき 参考
 満月前回の「天野久さんの能書の跡」はhttp://bnvn05.269g.net/article/14251603.html
 満月そして天野久さんのお姿は「造形6」(http://bnvn05.269g.net/article/2155940.html)で
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安岡正光さんのこと [エートマン・モードの人物館]

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 前回の山梨市万力の「かなざくらさん」に関連したことですが、
その神号標柱、即ち神社のお名前を記した石柱に、あらためて注目します。

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 この石柱に記された神社のお名前は、安岡正光さんの書になるものでありますが、
その部分をトータルで表すと「山梨縣知事正五位勲四等安岡正光謹書」となっていたのです。
今回、坂の上の神社へのお参りに気がせかれて、神号標柱の建造年代に意識が届きませんでした。
でも、知事さんが正五位で勲四等となると、半端じゃない(つまり最近じゃない)なぁと。

 それで、気になったのであらためて調べてみると、昭和15年1月から1年間在職した
第36代の山梨県知事(当然、官選の)・・・ということが判明しました。

 もうちょっと詳しく知りたい・・・。ネット検索で拾った断片的な情報によると、
本旧制第一高等学校の出らしい・・・。
本京都府警察部長の任にあった時期もあるようだ・・・
本もっと細かくいえば山梨県知事は、昭和15年1月19日の拝命で翼16年1月7日に辞している
本山梨県知事になる前は、神奈川県総務部長だったらしい
本さらにその前には、広島県総務部長も勤めたらしい

 結果としてあまり、というか、ほとんど詳しいことはわからなかったのですが、
ともかく山梨県知事の任にあった頃、請われてこの神社の神号を
したためたことがあったということであります。
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