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一本杉の下の慰霊碑 [忠魂碑の類]

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 花鳥山一本杉の下、前回の忠魂碑よりさらに杉の木に寄った場所に、
四角柱型の石碑が見られました。
その正面には、「戦没者慰霊之塔」の文字が刻されていますが、
大書された文字の左脇に「厚生大臣 山縣勝見書」と書き手の署名もありました。

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 正面はそういことですが、こちらでは背面と右側面を見ています。
背面には、「満州事変支那事変大東亜戦争戦没者慰霊の為之を建てる」
「昭和二十八年春彼岸」「花鳥村」と3行にわたる刻銘がありました。
それから左右の側面ですが、合計で110名ほどの戦没者のお名前が列記されているのでありました。 昭和28年と厚生大臣がどう結びつくのか・・・。

 それは、彼の最後の戦争が終結して数年が経過し、この国が復興の道の歩みを強め始めたとき
一つの区切りとして求められた形に関わるものとの理解は、同様な慰霊碑を取り上げた
過去記事でふれたことがあります。
(その記事がそれだったか忘れてしまいました。「忠魂碑の類に関するインデックス」  という記事に一覧を示した過去記事のどれかです。よろしければご参照を・・・)
 重複をためらわず、再び書き留めてみたいと思います。

 1945(昭和20)年、ポツダム宣言の受諾により、この国は「占領」された状態になり、
それが終了するのは1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約の調印、
そして翌1952(昭和27)年の講和条約発効を待つことになりました。
これにより独立した主権国家として再出発されたわけです。
 この講和条約発効の年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(昭和27年4月30日法律第127号)
が制定されています。
この法律の所管庁は厚生省(当時)でありました。
この法律の誕生をかわきりに、広く各地に慰霊碑が建てられた、その一例がこの慰霊碑で
時の厚生大臣が揮毫するなど、建碑に一定の協力がとられたのではないかと考える次第です。

 この建碑から、今年(2013年)で60年が経過、風化させず正しく継承していく
必要があるように思われます。

 この記事中、現在では適切を欠くと思われる表現がありますが、
存在したものをそのままに見る必要から、そのままに収録しています。
この点よろしくご理解くださいますようお願いいたします。
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